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本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、森林ボランティアのあり方について、森づくりフォーラムの代表理事を務める哲学者の内山節さんへのインタビュー記事が掲載されていた。内山氏は群馬県上野村で実際に生活する中で人間にとって住みよい環境、コミュニティのあり方を提唱している生きた哲学者である。この記事の中で内山氏は次のように述べている。

森林の仕事は、木の切り方にしてもマニュアルはあるが、木の一本一本、曲がり具合などを見て、どう倒れるか、判断して切らなくてはいけない。さらに下の地形も考える必要がある。判断を間違えると倒れる木の下敷きになりかねない。思った以上に考える余地が大きい。また、体で覚えることも大事だ。会社のオフィスワークではあまりなかった体の感覚で仕事をする。それは人間性の回復にとても重要なことと思う。
(中略)
少し抽象的だが、森の時間で責任を持てるかどうか。木の生育を考えれば、50年、100年単位で考えなければいけない。森を守る仕事を次の世代に引き継いでいく。幸い、若い世代の森林ボランティアグループも増えてきている。世代の異なるグループが協力して一つの森を守る活動もあっていい。もう一つは、『森の荒廃』といっても、参加者の意識も多様化している。森に生物種の多様性を求める人もいれば、水源涵養や環境保全、林業的価値を求める人もいる。これからの森をどうつくっていくか、皆で考えていくべき課題だ。

「パパでなくちゃ!」

昨日の東京新聞の朝刊に、チャイルド・ファミリーコンサルタントの山本直美さんの「パパでなくちゃ!」と題した小さいコラムが掲載されていた。中身の薄い文章なのだが、仕事に忙殺される日々を過ごしている自分にとって、はっとする文章であった。紹介したい。

このコラムもこれが最終回。最後は「どうしてもこれだけは!」ということをお伝えしようと思います。それは「今このひとときを大切にしてください」ということ。
お子さんと過ごす時間は永遠ではないことを、どうか、忘れないでください。子どもたちが身近にいて、一緒に泣いたり笑ったりできる時間は本当に短くて、けれどそのただ中にいると、当たり前すぎて幸せに慣れてしまう。けれどいずれ離れることを忘れずに、この貴重な時間を精いっぱい楽しんでほしいのです。
子どもたちと共有できるひとときは本当に幸せでいとおしい「宝物」です。また、子どもたちは大人をも成長させてくれます。どうかどうか、いつも心に留めておいてくださいね。
みなさんが1日1日を大切に過ごされ、たくさんの宝物をつくられることを願ってやみません。

「時代を読む」

本日の東京新聞の朝刊に哲学者内山節氏の「時代を読む」と題したコラムが掲載されていた。
初めて目にしたと思ったのだが、よくよく調べてみると、奇数月の第四日曜日に連載していたとのこと。
私自身が、昨年の9月に教材研究の一環として内山氏の住む群馬県上野村を訪れ、農村の可能性というものを考えていたところだったので、じっくりと読んでみた。

内山氏は、農山村にこそ人間の原点があるという実生活に根ざした思想をベースにして、グローバル社会を批判している哲学者である。今回のコラムも高校生にも分かる易しい語り口で現代都市生活、引いては人間のあり方そのものに警鐘を発している。
写経のつもりで全文引用してみたい。

 私の一年の暮らしは、東京と群馬県の山村、上野村を往復するなかに展開している。こんな生活をするようになって、四十年近くが過ぎた。
北関東のこの山村では、いま、梅のつぼみがふくらんできたところだ。その根元では水仙が咲き、福寿草が黄色い花をつけている。庭を訪れる小鳥たちの声もずいぶん春らしくなってきた。もうすぐ、いろいろな山菜がでてくるだろう。私の狭い畑も耕作がはじまる。四月は村の春祭りの季節である。
今日の山村は厳しい。過疎化も高齢化もすすんでいるし、経済的基盤は年々弱体化してきている。ところが不思議なことに、村の暮らしの方が都市よりも無事な感覚をいだかせるのはなぜなのだろうか。
私はその理由は、「私」を包んでいるものの厚さにあると思っている。村では自然が「私」を包んでいる。村人が「私」を包んでくれている。村の文化や歴史も「私」を包む。ここにはいろいろなものに包まれている安心感があり、それが無事な時空を感じさせる。
現代社会が弱体化させたのは、この包まれた安心感である。かつて人々を包んでいた自然や地域、風土から人間は離脱し、都市に暮らす個人になっていった。それでも少し前までの都市の暮らしにはまだいくつかの「包むもの」が残っていた。人々は家族に包まれていると感じ、友人たちもお互いを包み合っていた。終身雇用制や年功序列型の賃金制度をもっていた企業も、働く人たちを包んでくれているような安心感を与えていた。
ところが今日では、それもまたハゲ落ちはじめている。家族に包まれていると感じなくなった人々もふえてきている。労働者を利益追求の道具のように扱う企業もふえ、いまでは労働者の三分の一以上が非正規雇用になってしまった。正規雇用であったとしても、定年までの安定が保障されていると感じる人がどれだけいるだろうか。
私たちは次第に「裸の個人」になってしまったのである。いろいろなものに包まれながら生きていた人間が、その包まれたものを失い、「裸の個人」になっていった。
それは個人の利益を絶対視する思想を生む。自分以外に頼るものがない以上、すべてのものは自分が利益を上げるための手段になってしまう。こうして野蛮な市場経済が展開し、その市場経済からさえ退席させられていく企業や個人が増加する時代がはじまった。誰もが、たとえそれなりのかたちであれ、無事に生きていく仕組みがなくなってしまったのである。
これで私たちの社会はもつのだろうか。私にはこの問いが、これから具体的なかたちで、私たちの前に現れてくる気がしてならない。多くの人たちが、さまざまな不安に怯える社会、というかたちで。
近代社会の思想は、人間を単なる個体としてとらえた。「裸の個人」を絶対視したのである。私はそれは根本的な誤りであったと思う。そうではなく、いろいろなものに包まれているとき、個人にも安心感があり、無事を感じさせる一生がありえたのではなかったか。自然が人間を包み、人間の営みが自然を包む関係が成立しているとき、自然も人間も無事でありえたように、人間同士もまた、お互いを包み合うように生きていかなければならなかったのではないだろうか。
今日の私たちに与えられている課題は、自然をふくめて、人間たちが無事に生きていく方法の発見である。

本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、埼玉県の民間人校長公募制度で合格した、教育測定研究所執行委員の曽根一男さんと、元ゲイトウェイ・コンピュータ社長の松村和則さんの紹介記事が掲載されていた。

お二人とも現在の学校教育に物足りなさを感じており、「学力向上」、「コミュニケーションが密接な学校・地域作り」という高い目標を胸にして、4月から1年間教頭として赴任するとのこと。そして、来年4月に正式に校長として手腕を発揮する予定だそうだ。
ここ数年県立でも私学でも、校長が替わってトップダウンで校内の雰囲気が変わっていく学校が散見されるようになった。新しい2人の方には、1年間の教頭経験で潰れることなく、そして一つの学校に留まらず、埼玉県の教育全般に新しい風を吹き込んでもらいたいと思う。

本日の東京新聞夕刊から

本日の東京新聞の夕刊に関西学院大学教授を勤める、精神科医野田正彰氏のコラムが掲載されていた。
野田氏は現在東京大空襲訴訟の被災者の精神的医学診察に携わっており、そうした晩年を迎えた被災者に、自責や抑うつの症状が表れはじめていることを指摘している。一部彼の文章を「写経」し心に留めておきたい。

 この二十数年、私はホロコーストを生き残ったユダヤ人、旧日本兵による長期にわたる死の恐怖を伴う性暴力を受けた海南島や山西省の中国人女性、日本へ拉致された中国人捕虜、戦時二百万人餓死を生きのびたベトナム人などの診察を通して、「晩年における破局的体験への過去」現象に気付いてきた。
近年、戦争体験者が老いて生存者が少なくなるにつれ、過去の話を聞いておこうという動きが出ている。だが戦場にあった兵士たちはいざ知らず、一方的に被害を受け無力だった人びとは、戦後六十年たった今こそ、苦しんでいるのである。東京大空襲の被害者、そして日本各地の空襲被害者は、戦争被害者受忍論によって、自らの不幸を公的に悲しむ道を閉ざされてきた。運が悪かったと、私的に憾むしかなかった。
東京大空襲では十万人以上が亡くなったのに、いまだ遺骨を慰霊する独立施設さえ造られていない。歴史を語っているのではなく、今まさに悲しみ苦しんでいる人びとがいる。彼らを分断し、共に悲しむ会話を閉ざしてきたのは、戦後を生きている私たちである。
老いて殺されていった人に何もできなかったと自分を責めている被害者は、反省しない社会に代わって、なお苦しみを背負っているのではないだろうか。