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「末端に責任転嫁 『下剋上』に通じる抵抗」

本日の東京新聞夕刊にノンフィクション作家保坂正康氏のコラムが掲載されていた。このところ加計学園の獣医学部新設や自衛隊中堅幹部の暴言、財務省の森友学園との交渉記録の意図的廃棄、防衛省のイラク日報隠ぺいなど、虚言、ごまかし、言い逃れ、責任転嫁の事件がメディアを賑わせている。これらの事件に共通する構図として、保坂氏は次のように述べる。

 この構図は二つの特徴を持っていることが容易に分かるだろう。
一つは、責任は「より下位の者に押しつけられる」である。もう一つは自衛隊中堅幹部の件のように「言った」「言わない」に持ち込み、うやむやにしてしまおうとの計算である。私たちは、誰の言を信用するのか、という基本的な次元に追い込まれているということである。
保坂氏の「基本的な次元」という言葉が印象に残った。ここ数年の国会中継を見ても、論点をすり替え、誤魔化し、信用の有無という低次元のレベルでしか政治を見ることができなくなってしまっている。

保坂氏はさらに次のように続ける。

 この二つの特徴を最もよく重ね合わせることができるのは、太平洋戦争後に、連合国によって裁かれた日本人将校、下士官、兵士のBC級戦犯裁判である。
日本軍将兵の非人道的行為は、米国、英国、オランダ、フランス、ソ連、中国など各国の法廷で裁かれた。実際に手を染めた兵士は、上官の命令によって捕虜を処刑している。しかし、裁判で上官は「殺害しろ」とは言っていない、「始末しろ」とは言ったけれど、と強弁し、兵士たちが死刑を受けたケースも少なくない。(中略)
BC級戦犯裁判の残された記録は、末端の兵士に責任が押しつけられていくケースが多いと語っている。この構図は、「言った」「言わない」や「会った」「会っていない」の社会事象と全く同じなのである。

最後に保坂氏は次のようにまとめる。

 いま、私たちは歴史が繰り返されているとの緊張感を持たなければならないだろう。いや「歴史の教訓」が生かされていないことへの怒りと、私たち一人一人の運命が、こんな構図の中で操られていくことを透視する力を持たなければならないはずだ。時代はまさに正念場なのである。

「北 ミサイル実験中止表明したのに…」

本日の東京新聞朝刊コラムで、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が核・ミサイル実験の中止を表明したにも関わらず、全国瞬時警報システム(Jアラート)の全国一斉試験を行う日本政府に対する疑問が呈示されていた。

纐纈厚・明治大特任教授は「Jアラートや避難訓練に実効性はない。ミサイルへの備えというのは口実だからだ」と切り捨て、さらに、その狙いについて「意識統制だ。国家の命令でどれだけ国民が動くのかの確認で、監視社会への一里塚。ただ、もはや脅威の前提は崩れた。Jアラートや防衛のあり方を見直すべきだ」と訴える。

Jアラートは災害や日本への武力攻撃の動きなどを国が把握した際、自治体の防災行政無線を通じて国民に警告するシステムで、2007年から運用され、地震や津波情報に用いられてきたが、近年は北朝鮮のミサイル発射のタイミングで発動されている。消防庁国民保護室は「Jアラートはミサイル着弾警報専用ではない」と力説し、地震や津波など大規模災害も対象で、「試験放送は機械の不具合がないかを確認するための動作チェック。機械なので定期的な訓練が必要」と継続する姿勢を堅持する。

こうした動きにジャーナリストの高野孟氏は「国際社会が北朝鮮を巡って大勝負をかけている時に、そんな訓練をすれば『この期に及んで日本は戦争の準備か』と批判される」と危ぶむ。さらに、「安倍政権は北朝鮮の脅威をあおって、新たな安全保障法制を成立させた。森友・加計問題を巡り、内閣支持率が低迷する中、政権維持には『脅威』が必要。訓練を止めれば脅威が薄れたのかと突っ込まれる」と指摘する。

消防庁は本年度予算で、国民保護訓練の実施に前年度比44.4%増の1.3億円を計上したが、明治大の西川伸一教授は、頑なに訓練を続ける姿勢を霞が関に染み付いた「予算全額消費の原則だ」と指摘する。「予算は使い切る。政策の合理性が消えたら口実を作る。それが官僚だ。使い切らないと翌年度以降、予算が減らされる。省庁にとっては権限が縮小されるという恐怖だ」と述べ、さらに「安倍政権が持ちこたえているのは、北朝鮮脅威論のおかげ。訓練をやめられないのは、政権への忖度もある」と警告を発している。

スマホや町の防災無線が一斉に唸りを上げるという手法は、大変アナログである分だけ、聴覚に直接脅威を印象付けるシステムである。学校の修学旅行での戦争追体験や起震車などの災害体験とよく似ている。実際に起こった戦争や災害の疑似体験なら話は分かるが、起こってもいない核・ミサイルの恐怖体験というのは国民に正常な判断を与えない危険な手法である。
地震や津波などの災害と北朝鮮の脅威はきっちり分けて考えるべきである。

「マハティール氏 捜査」

本日の東京新聞朝刊国際面に、マレーシア警察が、偽のニュースを流布した疑いがあるとして、9日投開票の総選挙に立候補しているマハティール元首相を捜査しているとの記事が掲載されていた。
立候補を届け出るためにチャーターした飛行機の前輪に不具合が見つかり乗り換えざるを得なかった事故について「意図的な妨害行為があった」と主張したマハティール氏に対し、虚偽の情報の発信を取り締まるフェイクニュース対策法に抵触するおそれがあるというのだ。

何とも背筋が凍るような記事である。インタネット全盛の時代に、このような前時代的な法律が存在しているのだ。日本もいつ真似するやもしれないので注意が必要だ。

4月4日付の朝日新聞の記事によると、次のように説明されている。

マレーシアで3日、「フェイクニュース」の発信者に最高50万リンギ(約1370万円)の罰金や6年以下の禁錮刑を科す対策法が成立した。言論統制の強化につながるとの指摘が国内外から出ている。

 上院が3日、賛成多数で可決した。新法は「悪意を持って全部、または一部が事実に反するニュース、情報、データと報告書を出版、流布した人」を罰するなどと規定。対象には外国人や外国メディアも含まれ、「フェイクニュース」の流布を財政的に支援した人も対象となる。何が「フェイクニュース」や「悪意」にあたるかという定義があいまいで、恣意(しい)的運用が可能と懸念されている。

「京大名物のタテカン消える?」

本日の東京新聞朝刊に京都大学が京都市の景観条例に従って、学生側に名物ともなっている「立て看板(タテカン)」の撤去を通告し、一部の学生側ともみ合いになったとの記事が掲載されていた。
「安全」や「景観」といった反対しにくいロジックを盾にキレイな環境を目指す大学当局と、表現の自由や政治活動の自由を訴える学生側の対立構造となっている。
大阪府立大学の酒井隆史教授(社会思想)は、京大のタテカン問題について次のように指摘する。

1980年代まで残っていた大学の自治という感覚が、90年代から2000年代前半にかけてどんどん大学当局による管理強化の影響を受けてなくなっていった。
(タテカンやビラ配りは)東京大、早稲田大、法政大などかつては学生運動が盛んだったところでもほとんど消えていった。

上智大学の中野晃一教授(比較政治)は、政治の右傾化と大学管理が一体化されていると指摘する。

改憲のスケジュールを本格的に進めるときに、邪魔になるのは報道機関や大学教授、学生から上がる反対の議論だろう。
政権にとっての雑音を抑え込む上で表面化した、統制の一場面かもしれない。

一方、酒井教授はさらに深読みし、「条例を守れ」という市の姿勢と「憲法を守れ」という護憲派の姿勢がルールの一律化という点で類似していると述べる。ルールの適用の厳格化だけを推し進めようとすると、それに反対する人たちが邪魔なだけの存在と感じてしまう。酒井氏は多様な見解がぶつかり合う場の保証こそが大学の存在価値だと述べる。

さまざまな実力行使や話し合いも含めて、構成員がぶつかり合いながらルールを形成する。かつて大学がその可能性を提供していたデモクラシーの感覚が、希薄だ。安倍首相が退陣しても、この管理強化の根を断たないことには、表現の自由を含めたさまざまな価値は守れないだろう

「ハイレゾ社会に ご用心」

本日の東京新聞朝刊に掲載されていた、タレントのふかわりょう氏のコラム「風向計」の文章が印象に残った。フェイクニュースの飛び交う芸能界で生きてきた著者ならではの生きるヒントとなっている。

(高音質なハイレゾ音源が登場して数年経つが、必要以上の情報量に耳疲れしてしまい、CDの登場の頃のように普及していないという流れの中で)
世の中はハイレゾ社会になっています。それは、これまで聞こえなかったものまで耳に届いてしまう社会。ネットやSNSの普及によって、一個人のつぶやきが社会全体に響くようになりました。誰がどう思っているのか、何を感じているのかが、可視化されるようになりました。これは決して悪いことではありませんが、この「聞こえすぎる世の中」にいると、必要のない情報までキャッチしてしまい、耳や、心が疲れてしまいます。
余計な音に気を取られて奪われた、鳥のさえずりや、川のせせらぎ、木々のざわめき。鈍感力や気にしない力も必要でしょう。不必要な音をカットする、ローファイな暮らし。聞こえなくてもいいことばかり聞こえてしまう、ハイレゾ社会にご用心!