「アキハバラ後」

2週間弱留守にしていた頃の新聞を読み返している。
8月1日付の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」に「アキハバラ後」と題した次のような文章が載っていた。少々過激な文章であるが、1971〜74年に生まれた団塊ジュニア世代の境遇を鋭く突いている。

『未来あるフリーター未来のないフリーター』(NHK出版、2001年)で村上龍は、「フリーターのことを心配しているわけではなくて、彼らの復讐がうざったい」(当時は製造業への派遣労働はなかった)と言っていた。その後「労働力需給の迅速、円滑かつ的確な結合を図る」ため、労働者派遣法が改定され(2004年)、就職氷河期の谷間に落ちた若者たちが工場でハケンとして働く現象が起きた。
これは規制緩和というイデオロギーに基づく政治的決定の結果であり、経済的な自然現象の如きものではない。「経済がそうなんだからしょうがない」とつい思いがちだが、あらゆる経済現象はあくまで政治的選択の結果だ。だから今日の労働者が置かれた事態には、これまでの為政者の責任がある。
希望のなさを殺人と結びつけたのは無論本人の責任だが、将来結婚して家庭をつくることもできない、一生工場と寮を往復するだけなんだ、とまで思い詰めさせたからには、何らかの形でテロルが続くことは避けられないだろう。だってこの社会は、彼らに「人生」を送らせないのだから、社会を破壊するという形でしか、彼らは生のエネルギーを放出できない。それにしても、刺す相手を間違っていると思うが。(朝日平吾)

本日の東京新聞の夕刊

本日の東京新聞の夕刊の一面は、昨日の秋葉原での通り魔殺人事件をデカデカと報じている。

東京新聞夕刊の記事より
東京都千代田区外神田四の秋葉原電気街で八日午後零時三十分ごろ、トラックが歩行者天国の路上に突っ込んで人をはね、車から降りてきた男が両刃のダガーナイフで通行人や警視庁の警察官を次々に刺した。男女七人が死亡、十人が重軽傷を負った。男は約五分後に同庁万世橋署員らに取り押さえられ、殺人未遂の現行犯で逮捕された。
捕まったのは、静岡県裾野市富沢、派遣社員加藤智大(ともひろ)容疑者(25)。調べに対し「人を殺すために今日、静岡から秋葉原に来た。誰でもよかった」「生活に疲れ、世の中が嫌になった」「秋葉原には何度か来たことがあり、人がたくさんいるので選んだ」と供述。さらに携帯電話サイトの掲示板に犯行を予告する書き込みをしたことを認めているという。同庁捜査一課は同署に捜査本部を設置し、殺人容疑に切り替えて詳しい動機を調べている。
警察庁によると、通り魔事件としては過去十年で最悪の被害とみられる。

この非道な事件に対し、関西学院大学教授の野田正彰氏は次のように述べる。

1990年代終わりから自殺が増加したが、格差社会で暮らす男たちの絶望感、挫折感は自己への攻撃性に向かっていった。しかし攻撃性が徐々に「世界がなくなれ」という他者へ向かっている印象を受ける。社会は、事件を起こした加害者の動機を解明し、事件の背景を受け止めアクションを起こさねばならない。この姿勢が犯罪の予備軍に対し、犯行を思いとどまらせるメッセージとなる。格差を改善する社会づくりを進めないと、同じ事件は今後も起こりかねない。

他の識者が社会抑止力の低下や事件当時の容疑者の精神状態など、表面的な主張にとどまっているのに対し、野田氏は一歩踏み込んで犯罪者を生んだ日本社会の土壌にまで分析を加えている。確かに20代後半から30代の男性の抱える絶望感は他の年代には理解できないものであろう。失われた十年と生涯雇用の  狭間で  他の年代はうまくやっている バブル世代

本日の東京新聞夕刊

本日の東京新聞夕刊のコラム『放射線』に名古屋大学教授福井康雄氏のコラムが載っていた。「なるほど〜」と思いながら読んだ。

 先日、高校の先生方と話す機会があった。学習指導要領改定などは、ほとんど教育の改善に効き目はないだろうとのことだった。なぜかと思ってさらにうかがうと、私にとっては新しい問題が見えてきた。
印象に残ったのは、高校生の「人の話を聞く力」が弱くなったという指摘である。先生がじかに語りかけないと、関心を示さない生徒が増えている。四十人前後の生徒に先生が一人で授業する形が、今限界にきている。この傾向は低学年から、確実に進行している。ゲーム機とのにらめっこが多くの時間を占める現実が、この背景にありそうだ。
大人が子供と会話し触れ合う、「接触面積」の広いしくみが必要である。少人数の家庭でできることには限界がある。教員の数を増やし、その質と動機を高め、学校での「接面」を広げることが、真剣に検討されるべきだろう。
教育予算を増やし、教える体制をしっかりと整えることを抜きに、教育はよみがえらない。ゆとり教育という理念も、それを支えるしくみを欠いていた。国際的に見た日本の教育の予算の貧弱さは、すでに何度も指摘されている。国内総生産(GDP)に対する教育予算の割合(3.5%)は、先進国中でほぼ最下位である。経済の恵みを教育に還元すべき時である。

「人の話を聞く力」が落ちているから、教育予算を増やし教員の数を増やせという単純な主張には与したくないが、「一対一であればきちんと大人の話が聞けるのに、集団の中に入ってしまうとまるで効く耳を持たない高校生が増えている」という現場からの指摘には頷かざるを得ない。筆者の言う少人数授業をただ展開すればよいというのは表面的な改善しか見られないであろう。大事なことは「耳」で人の話を聞くのではなく、「体全体」で「動き」や「流れ」の中で相手の話を受け止めるということであろう。工夫を凝らしてみたい。

□ 名古屋大学 大学院理学研究科 天体物理学研究室 – ホーム

新聞のパズル

私の趣味の一つにクイズがある。東京新聞で毎週土曜日の夕刊に掲載されるパズルに取り組んでいるのだが、どうもここしばらくパズルの難易度が高まった気がする。先週は迷路だったのだが、えらい細かく複雑なルートを丹念に追っていってやっと答えが出る難問であった。また今週のナンバークロスワードにもたいそうてこずった。大体この手のパズルは得てして簡単で、数分で解けるものが大半なのだが、東京新聞のパズル担当は少し傾向を変えつつあるようだ。この4月にも団塊の世代が大量に退職しており、その影響で、新聞のパズルへの応募が増えているためであろうか。こんなところにも団塊世代のしわ寄せがきているのか。。。

『最高の人生の見つけ方』

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昼に子どもを公園やら「トイザらス」やらに連れ出して、さんざん疲れさせた揚げ句昼寝をした隙を狙って映画館へ出掛けた。
ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン主演『最高の人生の見つけ方』(2007 米)という作品を観た。
片や貧しいながらも妻や三人の子どもから愛され続けてきたモーガン・フリーマン演じるカーターと、4度結婚しながら家族も友達もいないジャック・ニコルソン演じるエドワードの老人二人がひょんなことから同じ病室に入院するところから物語は始まる。二人はそれぞれ余命6ヵ月と宣告されるも、死を受容することができない。そこで二人は死ぬまでにしたいことをメモ用紙に書きつけ、男の欲望を満たす旅に出る。スカイダイビングやカーレースに臨んだり、万里の長城でバイクをかっ飛ばしたり、美女と遊んだり銃をぶっぱなしたりと破天荒でスリリングな旅を続けるうちに、二人の間に友情が生まれ始める。やがて、人間にとっての一番の幸せとは、周囲の人たちに愛され、そして周囲を幸せにしようとする人生を全うすることだと二人は気付き始める。
まったくこれまでの生き方に接点のなかった二人が、病院を抜け出しピラミッドの頂上で人生について語り合うというありえない展開を踏むのだが、二人の演技が上手くて最後まで見入ってしまった。最後は少し涙腺が緩んだ気がした。久しぶりの映画鑑賞であったが、良い映画に出会えた。
私にとって良い映画とは日常をすっかり忘れてしまう作品である。だから映画館で、

□ 映画『最高の人生の見つけ方』公式サイト □