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渋谷の3公園 年末年始閉鎖 「炊き出し妨害」計画の団体反発

本日の東京新聞朝刊に、厳冬の最中、渋谷区が昼の公園からも野宿者を閉め出すという記事が掲載されていた。
ここまで来ると、法治国家の箍が外れ、区役所サイドの思惑で何でも通してしまう「行政の暴走」を容認することになる。
そうした暴走を止めるには、現場での少々荒っぽい実力行使しか解決策はない。
一見、渋谷区内の3つの公園の使用という小さな問題かもしれないが、そこには格差社会の進行や生活保護費の切り下げなどと相まって拡大する弱者の切り捨てという大きな社会問題でもある。
支援団体の皆さんは心身ともに大変だと切に思う。子どもが小さいので参加は難しいが、心ばかりの寄付という形で貢献したいと思う。

そういえば、1997年か98年頃に渋谷の越年闘争に参加した時、宮下公園から蒲田にあるバイト先まで執拗に公安の尾行がついたことをふと思い出した。ドラマみたいに雑踏の中を走ってみたり、ドアが閉まる直前に電車に飛び乗ってみたりしたが、尾行のプロは容易には欺けなかったっけ。( ^_^)/~~~

以下、東京新聞のHPより転載


20141227来年1月3日まで閉鎖される宮下公園=26日、東京都渋谷区で

 東京都渋谷区は二十六日、宮下公園など三つの区立公園を来年一月三日まで閉鎖した。宮下公園では年末年始にホームレスの人たちの支援団体が炊き出しを計画していた。区の担当者は「公園のルールとして火気厳禁。炊き出しをするなら利用は認められない」としている。
 緑と水・公園課によると、閉鎖したのは宮下公園と、その近くの神宮通公園、美竹公園。吉武成寛課長は「炊き出し場所の移動が想定されるため」と話す。いずれも敷地はフェンスで囲まれ、通常は午後十時半に閉門し、翌朝午前八時半に開く。二十六日朝は閉鎖の掲示が掛かり、定時になっても開門しなかった。
 宮下公園では「渋谷越年・越冬闘争実行委員会」が炊き出しを計画。昨年は公園内に宿泊用テントを設置して区から強制的に閉め出されたため、今年はガスコンロ二台で炊き出しのみを行う予定だった。メンバー約十人は二十六日、区役所を訪れ「命の危険に関わるから炊き出しをしている」と抗議したが、吉武課長は「違う場所を探してほしい」と拒否した。
 夏祭りの屋台では火気が使われるが、吉武課長は取材に「それは許可申請が出ている」とした。
 貧困支援のNPO法人もやいの稲葉剛理事は「野宿者を排除する動きは他の地域でもあるが、ここまで露骨なのは異様だ。年末年始は行政の福祉が機能せず、補う形で民間団体が支援している。それを妨害するのは言語道断」と話した。

「郷愁の社会主義」

本日の東京新聞朝刊に木村太郎氏の「郷愁の社会主義」と題したコラムが掲載されていた。
10年ほど前に公開された『グッバイ・レーニン』というドイツ映画をネタに、旧東独のテューリンゲン州で社会主義政党に属するボド・ラメロウ氏の首相就任を取り上げている。内容はさておき、ワイヤーで吊られたレーニン像が空を舞う有名な映画のワンシーンを思い出しながら興味深く読んだ。
ただし、木村氏の指摘する「郷愁」という側面には引っかかりを感じた。日本に限らずアジアでもヨーロッパでも格差が広がっている現在、社会主義政党に期待する国民の声は「郷愁」ではなく「現実」であろう。

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「大学生おしゃれデモ」

本日の東京新聞朝刊に、特定秘密保護法に反対する大学生が取り上げあられていた。学生の主張の中身よりも、そのスタイルの新鮮さ(?)に注目した内容となっている。このような金にもならない記事を掲載し続けている東京新聞の姿勢は素晴らしい。
歴史を紐解くまでもなく、どの国でもどの時代でも、社会の雰囲気を変えていく先導は学生である。やれ背後のセクトがどうたらこうたらとか、おしゃれなスタイルがああではないこうではないという野次が出てきそうだが、学生自身が考える一番効果的なスタイルを追求してほしい。
記事の最後にある、「僕らより下の大学1、2年生や高校生が僕らの方向をまねて、僕らが『だせえ』と言われるほどのデモをしてもらえるなら、それ以上のことはないな」という明治学院の学生のコメントが秀逸である。

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「道徳の教科化 心を評価する危うさ」

本日の東京新聞朝刊に、道徳の教科化に対する批判の社説が掲載されていた。分かりやすい良い文章だったので引用してみたい。

 小中学校の「道徳の時間」を検定教科書を使う正式な教科に格上げし、子どもの人格の成長ぶりを評価する。中央教育審議会が文部科学相に出した答申である。大人はそんなに立派な存在なのか。
 現行の道徳は教科外活動とされ、検定教科書はなく、成績評価もなされてこなかった。これが二〇一八年度から「特別の教科」に位置づけられる見通しとなった。
 国定教科書を用いた戦前の「修身」は愛国心といった徳目を国民に植えつけ、軍国主義教育の中核を担った。戦後の道徳教育はその反省に立って行われてきた。答申が時計の針を巻き戻す結果を招かないか気がかりだ。
 国語や算数・数学、理科、社会などの既存の教科は、先生が自らの知識や技能、経験も踏まえ、子どもに伝授するのにふさわしい分野といえる。テストという物差しをあてがい、習得具合を客観的に評価することができるからだ。
 道徳は対照的だ。物事の善悪や正邪にとどまらず、人間の生き方や価値観をも正面から取り上げる分野である。子どもの心奥に働きかけ、人格形成に大きな影響を与えるだろう。無論、テストでその発達ぶりを測ることはできない。
 そこで、答申は、点数式を排除して記述式の評価を求めたが、子どもの内面の在りように成績をつけさせることに変わりはないのだ。先生個人の主義主張や好き嫌い、えこひいきが入り込む。
 最大の問題は、何をどう評価するかだ。国が一律の物差しを作れば、自由かつ多様であるべき価値観や思想信条を統制することになりかねない。成績評価がついて回るから、子どもや親が無批判に受け入れてしまう懸念がある。
 国の検定基準に見合う教科書が導入されるのも心配だ。愛国心を定めた教育基本法に照らし、重大な欠陥があると失格になる。合格を意識するあまり画一的な偉人伝や格言、素材に偏らないか。やはり戦前をほうふつさせる。
 そもそも世の中の大人に、子どもの道徳性を評価する資格があるのだろうか。
 小渕優子前経済産業相はお金を正しく管理できず、松島みどり前法相はうちわを配り、そろって法律違反を疑われて閣僚を辞めた。国の責任者に選ばれる大人でさえ、人格完成へまだ道半ばではないか。
 貧困、紛争、温暖化…。社会の難題の解決には、人間の道徳心が肝要である。大人も子どもと一緒に悩み、考え、学び合う。その姿勢を欠いては、未来は危うい。

「東大闘争を語る」

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本日の東京新聞朝刊に、山本義隆元全共闘議長が40数年ぶりに「私の1960年代」と題した講演を行ったとの特集記事が掲載されていた。
1960年代後半の「全共闘運動」の背景にあった思想的潮流について、山本氏は、戦後の「平和」と「民主主義」「科学技術の進歩」の3つのシンボルが絶対的な正義とされた社会総体への疑問だと指摘する。「全共闘」というと、やれ保守と革新や、代々木と反代々木、〇〇派と××派の対立といったセンセーショナルな報道で彩られるが、戦後体制そのものの矛盾を明らかにするきっかけとなるものであった。
一連の学生運動が現代に与えた影響について、「何だったのかと問われると返す言葉がない」「あと何年生きられるか分からないが、やれることを見つけ、やっていかなければならない」というコメントが印象的であった。
アジ演説の写真の印象が強かったので、近況の写真のたそがれぶりに少し残念な心持ちがした。