社会運動」カテゴリーアーカイブ

激動の一九六八年を検証する―無党派運動の誕生

以下、救援連絡センターのMLから

 べトナム、アルジェリア、パレスチナ等、第2次大戦後も先進諸国の介入で戦争は絶えなかった。また、スターリン批判を契機に、神格化された社会主義への不信も生じ、反戦運動の担い手となった若者たちのエネルギーが、世界の各地で高まっていた。反戦と権力的抑圧に対する抗議運動の新しい流れの頂点ともいえる九六八年、日本の若者はどうしていたのか、それがどう伝えられてきたのかを検証する。

一、小杉亮子「予示的な実践をめぐって─東大闘争から考える」
日本学術振興会特別研究員。2016年、東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了。著書、『東大闘争の語り─社会運動の予示と戦略』。

二、太田昌国「60年代とは何か(仮)」
評論家。1943年釧路市生まれ。1968年、東京外国語大学ロシア語科卒。『世界革命運動情報』の編集、刊行に関わる。著書、『〈脱・国家〉情況論: 抵抗のメモランダム2012―2015』、『極私的60年代追憶─精神のリレーのために』他多数。

三、「パネルディスカッション・1968年を検証する」[質疑応答含]
太田昌国・小杉亮子・細谷修平(進行)
細谷修平 メディア・美術研究者。1983年東京都生まれ。和光大学大学院社会文化総合研究科修了。編著、『メディアと活性』。共著、『半島論』など。
資料冊子代 1000円

開催日時:11月10日(土) 13時半~17時半(13時受付開始)
場所:東京古書会館(千代田区神田小川町3―22)
主催:「激動の1968年を検証する」実行委員会

差別・排外主義を許すな!10・21新宿ACTIONへの参加を!

以下、救援連絡センターのMLより

 差別・排外主義に反対する連絡会は2010年来、毎年秋、新宿職安通りを中心にデモを行ってきました。コース沿いの商店などには事前にビラをもって挨拶に訪れ、当日は韓国語でもコールするなど、地域や沿道の人達へのアプローチは欠かせず続けてきた経緯があります。そしてデモは主に柏木公園を出発地と解散地として呼びかけてきました。ところがこの八月以降、新宿区は突然、柏木公園など新宿区内の三つの公園を集合場所として使わせない(使えるのは新宿中央公園のみ)と決定。商店街や住民の要望で「デモは迷惑」だというのが理由です。迷惑だから公園が使えず、デモが規制されるというのは独裁国家並みの暴挙です。私たちは今回の集合場所を「柏木公園前」として呼びかけ、例年通りの職安通りデモを敢行する予定です。
 小池都知事は昨年に引き続き今年も9月1日の関東大震災朝鮮人虐殺追悼式への追悼メッセージを取り止めました。極右レイシスト団体「そよ風」らが「朝鮮人虐殺はでたらめ」と碑の撤去を目標にした運動を強めています。レイシズムに同調する都知事を弾劾し、「そよ風」らの企みを打ち砕きましょう。同時に、公然と優生思想を煽る自民党衆院議員・杉田水脈の差別暴言も、沖縄と在日への差別・偏見・デマを煽る「ニュース女子」を放映し続けるDHCテレビなども、同根であり、こうした悪質なデマゴーグが権力中枢からメディアまで巣食う状況を看過するわけにはいきません。
 米国やヨーロッパでは、移民排斥運動やネオナチなどのレイシズムに抗する闘いが燃え広がっています。国内では川崎で今年も6月、8月とヘイトを許さない大衆行動が果敢に繰り広げられています。私たちも「生きる権利に国境はない」を合言葉に、国境を越えた反レイシズムの連帯行動を押し広げるために、10・21新宿デモを呼びかけます。
 50年前(1968年)の10・21は国際反戦デーとして新宿では数万の民衆が決起しました。
 今、新たな運動の一歩をともに創りだすために、10・21新宿ACTIONに多くのご参加を!

(差別・排外主義に反対する連絡会)
・集会賛同カンパ 1口 個人  500円   団体 1000円
・10月21日(日)
14時半 新宿アルタ前集合 15時~デモ出発

「死刑執行に抗議し、オウム事件についてもう一度考える」集会2018年8月24日(金)

救援連絡センターのメーリングリストより転載

一般公開の集会開催のお知らせとご参加のお願い
オウム事件真相究明の会にご賛同いただいている皆さまへ

お世話になります。
掲題の件についてご連絡です。

2018年7月6日 松本元死刑囚の執行によって、本会の趣旨である、「松本氏を治療し、適正手続きによって裁判をやり直し、一連の事件の真相究明を求める」という本会の目的は、残念ながら断たれてしまいました。会の目的達成が断たれた以上、本会は解散とさせていただく方向で検討中でございます。
また解散にあたって、会の最後のけじめとして、今回の執行によって社会にどういう問題が残ってしまったのか、そしてその問題を今後どように考えていけばよいのかという問題提起の集会を、以下の要領にて開催する予定です。
ご賛同人のみなさまにおかれましては、ご多用の折大変恐縮ですが、ご発言、あるいはコメントをお寄せいただくなど、本集会へのご参加を検討いただけますと誠に幸甚です。
つきましては、本集会への参加・不参加について、事務局までご連絡いただけないでしょうか。

●事務局:info@aum-shinsokyumei.com

会の解散、もしくは下記集会について、ご不明点・ご意見等ございましたら、同様に事務局までご連絡くださいませ。
何卒よろしくお願い申し上げます。(事務局)

<集会開催要領>

■集会名称:死刑執行に抗議し、オウム事件についてもう一度考える集会
■開催日時
2018年8月24日(金) 18時会場 18時30分開会
■場所
文京区民センター3ーA会議室
http://www.city.bunkyo.lg.jp/gmap/detail.php?id=1754
■参加費
1,000円

■発言予定者
(8/7時点 予定)
第1部
森達也さん(真相究明の会の活動と死刑執行について)
野田正彰さん(松本元死刑囚に面会し意見書を提出した精神科医)×二木啓孝さん(ジャーナリスト)
河野義行さん(松本サリン事件被害者)×浅野健一さん(ジャーナリスト)
第2部(順不同。概ね発言順)
下村健一さん(ジャーナリスト/白鴎大学客員教授)
茂木健一郎さん(脳科学者)
金平茂紀さん(TVジャーナリスト)
鈴木邦男さん(一水会元顧問)
山本直樹さん(マンガ家)
坂上香さん(ドキュメンタリー映画監督)
雨宮処凛さん(作家)
他、現在交渉中です

司会:雨宮処凛さん
以上

良い社会をつくる公共サービスを考える7.13埼玉集会

 

先日、埼玉県公務公共サービス労働組合協議会主催の「良い社会をつくる公共サービスを考える7.13埼玉集会」に参加した。公務員や連合傘下の組合が中心であるが、医療福祉や教育機関、地域交通などの「公共サービス」の質を向上させることが、豊かな地域社会づくりに繫がるという運動である。主催者あいさつの中でも、少子高齢の進展や自然災害を通じて、安全かつ良質な公共サービスと国民の健全な生活環境が根底から損なわれている実態が露呈したとの話があった。公務員に労働基本権が保証されていないことがそもそもの問題の原因である。「自己責任」という言葉が跳梁跋扈して久しいが、国、地方公共団体の責任の一層の明確化と官民問わず公共サービスに従事する者の適正な労働条件の確保と労働環境の整備が求められる。

後半は、名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授の内田良氏の「学校の日常を『見える化』する 部活動改革から働き方改革まで」と題した講演会が行われた。1時間という限られた時間であったが、ソフトな語り口ながらずばり核心に迫っていく話にすっかりと引き込まれてしまった。「生徒第一」「教育的意義」という美辞麗句のもと、制度設計なき長時間労働を黙認し、教員の自主性を絡め取りつつ過熱化する部活動のあり方に丁寧にメスを入れていた。
内田氏は運動会での組体操や運動部そのものは決して否定していないし、現行の教育が失敗しているとも断じていない。しかし、人や場所、カネ、時間などの資源が極めて制約されている中で、勤務時間外のサービスが過剰に美化・奨励されている現状に警告を発する。学校こそがブラック企業そのものである。また、「部活動がきつい」「休みがなく過労死しそうだ」という意見に対し、「そうした意見は一部である」という反論が必ず出てくるが、ブラック企業もいじめも過労死も全ての問題は「一部」なのである。一部の問題を全体で配慮するのが社会や教育の役割であると内田氏は強調する。
最後に、全国大会を目指す部活は民間のクラブの競争の論理にゆだね、部活動素人の教員は地区大会レベルで活躍できる、せいぜい6時くらいには全てを終えて帰れる制度設計が必要だと結論付ける。
勝利至上主義だけでなく、安全管理や健康管理という側面からも部活動が長時間化する傾向が強まっている。教員の自主性という面倒な要素もあるが、「ちょっとおかしいよね」と言える文化を大切にしていきたい。

経産省前脱原発テント日誌

経産省前脱原発テント日誌 7月5日(木)版【拡散希望】より転載

◎スポーツは僕らの気持ちを解放してくれる(?) 7月1日(日)

 例年よりも早く梅雨があけたらしい。ピカーと光って雷音がしないと、どうも梅雨あけの気はしない。戻り梅雨といわれる鬱とおしい日々が、また、やってくるのか。サッカーのワールドカップの狂騒にはうんざりというところもあるが、昨今ではスポーツくらいしか、不快な気分を払ってくれるものはないのだから、致し方ないのか。寝不足になるのだが、不快感はあまりのこらない。不快ばかりの世の中だが、スポーツくらいしか気持を解放してくれるものはないのか。歌もあるが、最近は一人でカラオケに行くのも足が遠のいている。

 そういえば、日大アメフト部の悪質タックル問題の解決はどうなったのだろうか。自分の指示を学生(選手)のせいにして責任逃れをしようとしていた監督やコーチは、思惑通りには行かなかったようだ。そこまでは、世間は甘くはなかった、というべきか。だが、アメフト部の監督やコーチを背後で支えていた大学のドンたちまでは、事の追及はおよばないのだろうか。宮川選手一人の勇気ある反省と行動だけで終わらせるのか。暴力と格闘をはき違えているアメフト部の監督やコーチの体質は、また指導という名の独裁的支配構造は大学の構造であり、大学の支配的構造にメスが入れられるべきとは、誰もが考えることだろう。ここは、時間という経緯の中で、うやむやに処理されてしまうのか。そういう懸念があるが、それを容認しない人々の視線が続いてあることが肝要だ。

 「森友・加計」学園疑惑、その当事者たる安倍首相は「捏造」や「改竄」で逃げ切るのか。「悪貨は良貨を駆逐する」というが、権力犯罪は伝染する。データ不正問題を露呈された三菱マテリアルの新社長は、不正問題の対応は適切だったと幕引きを企てている。やがて、日大の大学当局者は「あの対応は適切だった」とでも表明するか。権力犯罪、権力の犯罪行為は、捏造や隠ぺいなどで闇に処理され、なにごともなかったかのごとく処理されて行くのか。僕らは絶望的な思いにさせられることもあるが、ここで踏みとどまり、悪行が栄えたためしはないと闘おう。政治・社会、つまりは政治的機関や企業や学校などで、形や現象はいろいろであっても、権力的な犯罪、権力が絡んだ犯罪(セクハラやパワハラなどを含め)は、これからの社会の基本的なこととして問われていくだろう。人々の権力構造や権力者に対する視線は厳しくなって行くに違いない。不快が続くだろが、僕らはあきらめてはならない。このいろいろの領域での人々の怒りは、おおきなうねりになるだろうから。

 確かに権力がその強化に走り、権力が過剰化して行くのは、権力の欲望であるとともに病である。近代権力としてのヒットラーやスターリンの演じた権力の過剰化(超権力化)は、後でこそ悪魔の所業として批判されたが、その進行過程や当初では、なかなか批判されなかった。時に、人たちは、これを支持したことも見える。権力の動きに対して、その過程で批判が難しいことは、考え去られることだ。それはよく分かっている。だから、権力の現在の動きに不断に反応し、権力はどうあるべきか、を問わなければならない。このことは戦争に似ている。戦争は、はじまりや、準備過程ではなかなか批判が難しい。戦争は、資本の支配欲でおこるとされてきた。帝国主義の戦争である。それはあるが、権力の欲望(過剰化に向かう自然な欲望)こそが、戦争の原因であり、推力であることを理解しなければならない。権力の欲望は、共同幻想(例えばナショナリズム)で装いされるから、批判が難しいのである。

 不祥事とともに権力の犯罪は発覚するが、僕らは、それ以上に、見えない形態での権力の犯罪、あるいは暴走を見ていなければならない。例えば、原発再稼働し、原発存続を画策する動きである。これを主として推進しているのは、電力会社と経産省である。電力各社は、株主総会で株主からの脱原発の提案を拒否し、原発回帰を色濃くしていると報道されていた。また、経産省は、原発の電源としての存在を肯定する「新エネルギー計額」を確定しようとしている。これは、やがて閣議決定に持ち込まれるだろう。今、あらためて言うまでもなく、この原発推進は、福島原発事故の反省はしていないし、その収拾すら、できていない中でのことだ。

 この原発再稼働を推進しているのは、経産省という官僚、つまりは権力(行政権力)である。彼等は福島第一原発をはじめ全国の原発を推進してきたのであるが、福島での事故に何の責任を取らなかった。早い段階から再稼働の画策をしてきた。再稼働は、表向きは、原子力規制委員会の審査をかかげているが、実際の推進は経産省であり、それは、秘密裡に決められている。その手続きや政策審議というものは、明らかにされずに、秘密裏に、ことは進められている。このプロセス隠しは、責任の回避と表裏一体のものであり、伝統的な日本の権力なあり方だ。「お上」としての日本の権力の常套のすがたである。これは、かつての日本陸軍のやり方と変わっていない。経産省は、今、巷で話題になるような不祥事はやっていないかもしれない。しかし、原発の推進が大きな不祥事であり、その生産であると、みなければならない。

 国会周辺につめかけて安倍政権の所業の抗議している人々の闘いは、結構、長い歳月の中での闘いとなっているが、あきらめてはいないし、「あきらめない」を合言葉にしている。自分自身でも、そのしつこさにうんざりするくらいの闘いをやらねばならない。僕らには、内なる闘いが大事だ。それは、あきらめずに、淡々とだが、長い射程を持った日々の歩みをやることだ。無意識化し、日常化した行為として国会や霞が関一帯での行動を続けよう。そこに足を運べなくても、気持ちはそこに向けていよう。
(三上治)