早稲田大学での再編の現状

早稲田大学での再編の現状

1996年9月14日発表
社会評論社刊『学問が情報と呼ばれる日』より

1、 大学改革の目指すものは

(1)「グローカル・ユニバーシティ」

早稲田大学においても他の全国の大学と同様に「文部省=大学審議会」答申の方向で再編が進んでいる。

早大は80年代までは高い偏差値と知名度に支えられ、「教授3流、施設4流」と扱き下ろされようが、特に宣伝などしなくても全国各地から受験生が集まってきた。しかし90年代に入って、受験情報誌などでは偏差値に変わって、就職率や教授の能力、語学・資格関連の講座、設備施設の充実度などが詳細にランク付けされて採り上げられるようになった。そのランキングにおいて早大は慶応大学に大きく水をあけられて、実際受験生も93年以降、国立大学の充実に伴う私学離れの流れもあり激減している。そしてまさに生き残りをかけて市場経済の論理を導入し、受験生獲得に懸命に改革を進めている。

95年の11月に大学当局は、「グローバルな視野に立ち、ローカルな精神力と行動力をもった若者の育成」を理念とする「グローカル・ユニバーシティの実現をめざして」という、2007年の創立125周年に向けた大学改革の基本的な考え方を発表した。これは早大が18歳人口の激減という「大学冬の時代」を迎え、就業・産業構造の変革の中で、いかにすれば生き残っていけるのか、21世紀を前にしてどのような人材を社会に供給していくのかという経営戦略である。教育研究の新たな展開、現キャンパス整備計画に始まり、付属、系属校との一貫した教育システムの構築、財政の再建を目的とした大学周辺の土地の開発事業などの附属・収益事業の展開、大学諸制度の改築、募金集めのための事務機構の強化などが提言されている。

(2)「アジア太平洋」への進出

改革案の中で、「教育研究の新たな展開」に関して、当局理事会は、「アジア太平洋」「生涯学習社会」「高度情報化」の3つのテーマを軸に教育研究体制の展開をうたっている。「脱亜入欧」を唱えて慶応大学を開設した福沢諭吉に対して、「東西文明の調和」といった創立者である大隈重信の言葉を引き合いに出して、「アジアの中の早稲田大学を目指す」とし、巨大なビジネスマーケットであるアジア太平洋からインド洋経済圏に必要とされる人材育成、ビジネスチャンスの拡大を将来構想の中心に据えている。

当局は「1990年代に入りアジア太平洋はめざましい経済成長と急速な社会変容を示しており、日本においてもこの地域の研究を組織的にすすめる必要性が強まっている。それと同時にこの地域の人材に対する高等教育の必要性、日本への留学生派遣等による管理者養成の需要が大きく高まっている。」との判断から、97年度に「アジア太平洋研究センター」の設立を発表している。「センターでは、アジア太平洋地域に焦点をあて、地域研究(政治、経済、歴史、文化など)を核とした国際経営および国際関係分野の学際的研究を特色とし、情報通信分野などを含む新しい高等研究の開拓ならびに大学院研究を行う。大学院では、実務の場で国際的に活躍できる人材養成をめざす。実務経験をもつ社会人学生を多く受け入れ、生涯学習、リカレント教育、ビジネス教育に資する。」としている。

このセンターでは大学院独立研究科、理工系のセンター・大学院と共通の情報関係のカリキュラムを組むことなどが提言されており、また、飛び級制度、教育・研究者の短期任用制度等が計画されているなど、企業のシンクタンク並の陣容を構えている。早大では環太平洋を中心に技術、情報を売り込むためのリーガル、マネージメントが一体となった教育研究を一つの柱としている。日米安保を背景にしたAPEC、橋龍政権と軌を一つにしながら、アジアへの経済侵略の一端を積極的に担っていこうとするものである。

また早大当局はアジア各国の大学と協定を結び、交換留学制度を拡充している。これはヨーロッパでの大学間協定に対抗するため、アジア太平洋地域においてASEAN加盟国を中心に「アジア6大学構想」という大学を中心軸とした枠づくりを目指そうとするものである。それを足がかりとしながら上記のアジア太平洋政策を円滑に推進していこうとしている。

(3)生涯学習社会のかけ声

社会人への「大学開放」として「技術者や管理職候補者で専門・隣接分野の知識を深め、経営管理の責の備える者」を対象とした、ビジネススクール、社会人夜間大学院の充実などが筆頭に挙げられている。現在大学が経営している社会人向けの研究センターを前述のアジア太平洋地域の研究機関として改組し、一貫した教育研究のネットワークの構築を計画している。

また卒業生を中心として展開されている「エクステンションセンター」なるカルチャーセンターも積極的に活用して、最終的には5万人規模の今後のマルチメディア産業でもてはやされる表現・芸術を学ぶ場として社会人へ広く開放すると述べている。

しかし現在このセンターでは、「生涯学習の機会を広く海外にまで拡げ、幅広く国際的な視野をもっていただく」なる宣伝文句を多用し、「海外短期留学プログラム」や「研修旅行」といった旅行業務まで手がけている。受講者の向学心を多分に煽り、「生涯学習」の旗印の下に収益事業の拡大に奔走しているのが現状である。

(4)高度情報化への対応

慶応藤沢キャンパスの世間での評判に対して、何かと比較されることの多い早大でも4万人いる学生にとにかくコンピューターに触れる機会を与えようと、コンピューター端末の導入を急いでいる。当局は2007年を目標とした「国際化」「情報化」「マルチメディア」といった「はやり」の言葉が踊る「情報化推進プログラム基本方針」を発表しており、そこでは学内情報ネットワークを整備し、職員レベルでの事務の効率化から始まり、学内の図書、博物館資料をデータベース化し、wwwサーバー上に開放することを目的としている。

現在学生共有のパソコン端末室を学内に数カ所開設し、学生同士のe-mailや就職情報の入手などでインターネットなどの利用機会を与えている。しかしその一方で図書館と同様に学生が端末室に入るのに学生証が必要であったり、またメ-ルを利用する際も、必ずアドレスに学籍番号を使用しなくてはならないなど学生の身分に対する管理体制は徹底されている。結果、当局による学生のメールの容易なチェックの危険があり、当局批判のみならず、通信、表現の自由そのものが制限されてしまっている。キャンパス内でビラや立て看に対して規制を強化するのと軌を一にして、学内情報ネットからも学生の匿名の表現を剥奪している。「双方向マルチメディア」といった万人の、自由な情報化のイメージとはうらはらな方向で情報化に関して再編を進めている。

(5)教授会自治の崩壊の中で

このような一連の改革を断行していくにあたり教員も再編の対象とされている。

早大はバブル期の周辺土地事業、付属事業の失敗のつけが大学財政を逼迫しており、いよいよ教員の給与体系の改革にも手を回さざるを得なくなってきた。そのために週刊誌で大きく取り上げられが、65才以上の教員の年収の3割をカットや、年収の1%の強制的寄付といったことが提言されている。

予算の重点配分や「任期制」の導入も審議されており、時流に乗った「結果の見えやすい」研究のみがもてはやされ、理事会の方針に反対の立場の教員などは業績を理由に排除されいくのではという危惧が教員の間でも根強い。

これまで一定学生運動に理解のある教員が「保存」されてきたおかげで大学内部から大学自身の姿を捉え直そうとする気風が残されてきたと思う。しかしこれまで確実に身分を保証されてきた教員すらも企業社会の論理に晒されて、自らの立場性から問い直そうとすることが出来ない情況になってきている。

現実問題として、学内で公認サークルを運営したり、教室等を借りる際には、顧問教員の同意が必要であるのだが、当局にとって「芳しくない」集会などを開く際は、顧問のはんこの入手にすら一苦労であり、反対の声を上げる場所すら奪われてきている。

学生だけでなく、教員すらも切り捨て、再編の対象となっており、実際に大学の運営に携わっているものでさえ、早大がどのように変貌していくのか予測がつかないのではないだろうか。

2、学生再編

(1)自主活動への規制

また上記の一連の大学改革の流れと並行して、学生の自主自治基盤も大きく揺らいでいる。特に95年には、「商学部学生自治会」の公認の一方的な取り消しや、「早稲田祭」の開催をめぐって補助金に関する大学当局の介入などが新聞や週刊誌にも大きく取り上げられた。

またキャンパス内で日常の拡声器の使用、立て看、ステッカーに対する規制も年々強化されている。古い校舎の改修や新校舎の建設に伴って、ビラが貼れにくいような壁に塗り替えられたり、「近隣住民の迷惑になる」「消防法の関係上」等々のもっともらしい理由を設け情宣活動など学生の自主活動に対し弾圧を加えてきた。

最近では「節電」を理由に空き時間には講義室に頻繁に鍵をかけ,学生がたまらないようにしたり、体育館もサークルの利用人数に応じて、照明の点灯範囲を制限し、またその調査を口実にサークル活動を監視するといったことまで行なわれている。空き教室、グランドの利用にあたっては、学外の人間が半分を占める団体には貸さないなど、サークルの内面にまで踏み入った管理、規制も行われている。

(2)現キャンパス再編計画

当局は「グローカル・ユニバーシティの実現をめざして」の改革案の中で、現キャンパスの整備計画にも触れ、「教育研究施設と課外活動関連施設の分離」という理念の下に、キャンパス内のラウンジや地下部室等で活動しているサークル活動の一掃を提言した。そしてキャンパス内において学生の「課外活動」の一切を禁止し、その収容先として、学生生活課や就職課が建物の1階に同居する「新学生会館」をキャンパスの不便な場所に建設し、そこにすべて押し込めようとする計画である。

今後のマルチメディア対応の新校舎建設や教育研究環境の改善を名目として、学生の自主活動スペースを切り崩すそうというものである。早稲田大学では60年代、70年代の学生運動の激しい頃から、校舎内の地下やラウンジ、また階段の下や屋上などキャンパスのいたるところに、学生が「不法に占拠」した倉庫やベニヤで囲った空間があり、サークル部室として利用され学生同志の交流の場となっている。キャンパス内にビラ、立て看が所狭しに並べてあり、入学シーズンには立ち止まるのも困難なほど、激しいサークルの勧誘が行なわれている。

現在早稲田には千以上のサークルが活動していると言われているが、しかし「新学生会館」にはたったの400程度のサークル部室しか用意されていない。これでは「新学生会館」にあぶれたサークルは学内で活動の拠点を失うことになる。この95年の11月に 「教課分離」の一方的な当局案が出された後、学生側は自治会、サークル団体等が連帯し、「教課分離」原則を前提とした「新学生会館計画」に反対の声を上げ運動を展開している。

しかし、ここにいたるまで当局は「課外活動」への補助金の許認可をちらつかせ、情報を当局寄りの一部の学生団体にのみ流すなどの手酷い手法で学生を分断してきた。「当局のルール」を守らない一部の反対する学生には「学外者」、「左翼セクト」のレッテルまで貼り、一般の学生層から強制的に浮き上がらせようとしてきた。そして労働運動の現場で行われている手法そのままに、アンケート調査や、当局寄りの学生を利用するなどして、個々にサークルを撃破し、学生のまとまりを分断し、学生としての統一的要求をあくまで作らせないよう計ってきた。

その上当局は学生との交渉の場を一切拒否し、「新学生会館に関する説明会」を学生の反対にも関わらず強行した。そしてこの「説明会」においては学生証のチェック、アンケートの捏造、学生の意見の分断が平気で行なわれ、「学生の意見は聞き置いた」と形だけの合意を取り付け、当の学生不在のまま一方的に計画を推進している。

今後学費制度見直し等の問題も控えており、学生側も反対の態度を崩しておらず、予断を許さない状況である。

(3)学生の自主自治活動

都市型大学であるが故に、キャンパス内の敷地に余裕がないため、前述のようなキャンパス移転、新校舎建設に伴い、「教育施設の拡充」「課外活動施設の整備」を名目とした学生の自主活動施設の排除という手法は70年代から行われてきたことである。

しかし現在の早大当局はこのキャンパス整備計画の過程において、学生の自主活動のいたずらな破壊という行為には及んでいない。むしろ表面上はサークル活動に対する補助金を増額したり、「自由闊達な早稲田文化の創造と交流を支援する」などと述べるなど一貫して学生の側に立っているという態度を取り続けている。

当局は学生のサークルや、ボランティア活動といった自主活動を「正課授業を補完する課外活動」として、大学生活に積極的に寄与するものとして「厚生補導」の一環として位置づけている。しかし「課外活動」として活動の名目を与える一方で、顧問教員への締め付けや、構成員の名簿、活動状況、収支報告の細かい書類の提出などの面で管理を強化している。運営面において締め付けをはかることにより、公認サークルと非公認サークルの間に厳格な差異を設け、公認サークルには補助金を増額し、保証を与え、一方で当局が容認しないサークルの活動拠点は徹底して排除する構えを見せるなど、飴と鞭をうまく使い分けて学生の自主自治活動のふるい分けを行っている。

ではこのように再編を進めていく先に、大学当局は学生の「課外活動」に何を要請しているのだろうか。大学当局は授業ではまかなえないような体力や、組織としての行動力、統率力、今後必要とされる創造性や表現力などを養成する場として学生の「課外活動」を取り込んでいる。当局は必修の授業から外れた保健体育科目や資格取得などに充てられる「授業時間外の学習の重要性」を殊更に強調している。このような背景には企業にこねの強いサークル、資格取得、語学学習を目的とした勉強会、野球やラグビー、駅伝など宣伝効果の高いスポーツなどといったものをうまく利用しようという目論見がある。そのような当局に「都合のいい」サークルと、他の自主活動をどのように選別していくか、そのために一つの「ハードル」として今度の「新学生会館計画」を位置づけている。

しかし一方で学生の間で自主自治空間を守ろうとする意味がはたしてどこまで共有できるのか。学内における自主自治空間の意義が大学当局、学生双方に問われている。

(4)学生像の変容

しかしこのように自分たちのサークル活動の直接の利害に関わる部室問題が大きく焦点化されているのに、残念ながら学生の大半は無関心である。

早大に入る最近の学生は入学前から中学高校での生徒会やクラブ活動、町内の自治会といったものに受験のためにあまり熱中することなく育ってきたせいもあってか、「自分の置かれている場を自分で守る」という権利概念の意識があまりない。 サークルの活動に熱中する学生自体も授業での出席強化、資格取得のWスクールなどで近年減ってきている。またサークルに入ってはいても、授業のほうを優先し、就職が近くなるとあっさり姿を見せなくなるなど所属団体への帰属意識そのものが薄くなっている。

また最近の学生は「大学」という場に必要以上に自分を重ねることを嫌う傾向が強い。高額な学費、偏差値によって東京近辺の学生が増え、「早稲田の学生」といった共通のアイデンティティー自体が90年代に入り急速になくなってきている。

クラス必修での授業が減り、クラスそのものが分断され、サークル活動に熱中する学生自体が減少傾向にあり、サークルの数も減ってきている。自主自治基盤の内実そのものが大きく揺らいできている。そのような状況の中で、「早大生」という共同性を前面に提示し、「学生の自主自治基盤の原点である部室という大切な空間を守ろう」といった考え方自体が一般の学生間で共有し難くなっている。

(5)カリキュラム改革

また現在行なわれているカリキュラム改革が前述の「学生再編を容易にする装置」として機能している。

早稲田大学では「在野精神」「学問の独立」という宣伝文句を常用し、入学式の訓辞においてもこの点が重ねて強調されるが、学生のそのようなイメージに対する憧れや興味、好奇心をいかにして大学側が絡めとっていくかに改革の重点がおかれている。 卒業単位数、必修クラス科目を削減し、「自ら能動的に、各科目の学習に取り組むこと」に重点が置かれ、これまでのような押しつけではなく、学生の「能動性」「主体性」をいかにカリキュラム制度内に引き出していくかという点に当局は改革の目的を置いている。

一般教養を廃止し、コース制の導入、専修の改組により専門科目を充実し、1年から4年まで体系的にカリキュラムを組んでいる。それに伴い、一般教育科目も「専門科目を学ぶ準備段階」、「専門科目の周辺を学ぶ」といった目的で設置され、「環境と生命の倫理学」や「近代文学の中の家族像」「生きがいの探究」といったように、「わかりやすく」学生の興味を引くような科目が並んでいる。

入学前から「進取の精神」、「反骨精神」といった餌をちらつかせ、一年生から専門科目を学ばせ、一般教養を含め体系化することにより、学生の学問に対する興味や自主的な活動の鋒先を直接に大学の制度の中に収斂させていくを目的としている。それによって学生の「主体性」そのものを当局がコントロールしていくようになっている。学問の目的や「課外活動」等の意義を大学当局が積極的に学生に「洗脳する」ことにより、学生は大学当局が用意した場の中で「主体性」「能動性」を発揮することに何の疑問を抱かなくなってしまう。学生は大学当局が決めた「制度」の中で、「自由な大学」、「民主的ルール」といった当局の言葉を確信してしまっている。そのような「学生主体」からは大学制度そのものを根本から問い直してみようといった発想は生まれにくいであろう。

3、まとめとして

早稲田大学は総合大学であり、また学生数が大変に多いので一大学で総体として述べることは出来ないが、早大は企業産業界の先端を担っていくための少数のエリート・研究者の育成と、資本の消費者・労働者たる中産階級、市民の育成の大まかに2つのベクトルに沿った人材の養成という命題を文部省、産業界から突きつけられている。

早大では96年に全学部において博士課程まで大学院を整備し、受験生向けの学校案内パンフレットでも大学院が教育研究体制の全体図の中心にきておりそれを研究センター、企業がサポートする体制をとっている。学部はその下に位置づけられており、サークル活動は「課外活動」として学生生活の補完を為すものとされている。

これは大学院、研究センターを頂点とし、「アジア太平洋、生涯学習」へと一貫した大学再編の過程で、学部段階での教育・学生生活を進学、また就職への準備段階、補完的機能として位置づけるものである。そして「大学大衆化」の中においてあくまで大学院を教育研究の中心軸に据えて、それと同時に国家、企業に必要とされる素養を学生に身につけさせることを目的とするものである。企業産業界と手を取り合った研究センター、大学院を頂点とした階層構造を「学内」で構築することにより、就職、進学の競争意識をあおり、大学を内部から活性化させようとするものである。そうした教育研究体制を補完する役割で「課外活動」を位置づけ、カリキュラム改革においては学生の意識レベルにおいて改革を進め、学生を立派な社会への「商品」として再編しようとしている。

このような大学院を頂点とした公教育全体の新たな改革のなかで、大学自体が再編の波にもまれ大きく変貌している。

それらの再編の中で大学当局は更にどのような結果を求めて学生の自主自治基盤を絡めとっていくのか。またそれに抗して学生の側がどこまで批判点を明確にし、どのような大学像を描いていかねばならないのか。更に幅広い分析と議論の必要を感じている。